鎌倉fonteの日常

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平和を願う

母になって初めて
戦争って何?と4歳の長女に聞かれました。

今日、長崎に原爆が投下された日が間もなく終わろうとしています。

母になって私は、
世界で止むことのない戦争のニュースや貧困のニュース、
殺人事件のニュース、
子供に見せないようにしてきました。
そして自分も、出来れば見たくないと思うのでした。
本能的なものでしょうか?

でもそれじゃダメなんですよね。
長女の質問に、困難でも、自分なりの希望をもってこの問題に取り組みたいし、
平和を実現するためにできることを探る姿を娘に見せなければならないと思いました。

自分が携わっている、食の安全もすこぶる危機的状況ですが、
平和もまた、危機的状況に感じます。

長崎の原爆では、祖母のお姉さんが死んでいます。
戦後50周年の時、母と私と祖母で、祖母が願い続けていた長崎の原爆投下の日の慰霊式典に参列しました。
秋田の地元で結婚し、数か月で旦那さんの会社の転勤で長崎に転居し、
1ヶ月後の悲劇でした。

長崎の原爆投下以降、明確な情報もないまま心配している妹(私の祖母)と母親のところに、
風呂敷にくるんだドクロをもって婿さんが泣いて報告をしに来て、
二人で腰を抜かしたと言っていました。
婿殿の話では、
出社しようと家を出た瞬間に爆弾で社宅がぺちゃんこに。
外で奇跡的に助かった婿殿がぺちゃんこの社宅から妻を引きだした時にはもう命はなく、
見渡す限りの景色が変わり、ただ事ではないと感じながら、
社宅を解体して妻を送ろうと燃やすも、火力が足りなくて頭しか骨にできなかった。
と真っ黒なドクロを涙ながらにすみません!!と風呂敷から出してきたと言う話でした。

娘がそんな死を遂げたと知ったあと、続いて夫と息子の戦死の手紙が届き、
祖母と祖母の母は、一月以上会話のない生活を送ったと言います。

孫の私にとっては、
いつも明るくて、
太っていて、料理が上手で、
秋田に遊びに行くと、
3食、おやつ、手作りしてくれる祖母の姿しか見てきませんでした。

50年たって、長崎に行きたい、自分が生きている間に行きたいと言って参加した慰霊祭。
暑い暑い長崎の炎天下の下で、ずっとずっと黙祷を続ける姿と、
その後、タクシーでお姉さんが住んでいて亡くなった社宅後を昔の住所から探し出し、
その場に立ち尽くして泣く姿は、家族にとって50年たっても癒えない、傷をまざまざとみて、
高校生だった私は、初めて戦争をリアルに感じたのでした。

平和があってこそ、
です。

核兵器をなくす運動を続けてきた日本人女性のドキュメンタリー

明日世界が終わるとしても「核なき世界へ ことばを探す サーロー節子」
http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2017-08-12&ch=11&eid=02812&f=4231
ちゃんと見たいと思っています。
二度と、核による悲劇がおきませんように。









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by fonte22 | 2017-08-09 23:20 | 日記・エッセイ・コラム | Comments(0)